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2018年 06月 11日
日枝神社、山王神幸祭<文化・風物詩>
二年に一度、江戸城を囲むように位置する千代田区の町を巡行する日枝神社の山王神幸祭が6月、江戸三大祭りのトップを飾って執り行われます。そして、総勢500人にも上る大行列が300mにわたって続きます。
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日枝神社と「山王さん」
日枝神社のことを昔からの江戸っ子は「山王さん」と親しみを込めて呼んでいます。「日枝神社」と呼ばれるようになったのはは明治元年からのようです。日枝神社の御祭神が「大山咋神(おおやまくいのかみ)」であり、この神は今の滋賀県近江の国の日枝山に座していたことから来るようです。一方「山王さん」はその昔武蔵野開拓の祖神で江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮をまつったことに由来すると言われています。

      赤坂、溜池に通じる外堀通りに面した日枝神社入口の鳥居
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       神門
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徳川時代、江戸城築城の後徳川家康が居城するに至った天成18年(1590年)、場内に鎮守の杜として、また江戸市民からは江戸の総氏神として社が造られ崇敬されることとなります。
二代秀忠による江戸城大改装の折、それまでの城内紅葉山から城外の今の国立劇場の辺りに移ることになります。その後明暦3年(1657)の大火で焼失したため、時の将軍家綱が溜池の今の場所に改めた。

       本殿
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山王神幸祭の復活
昭和25年戦禍に遭い多くの社殿を失くしましたが、氏子の協力の下昭和33年~所和42年にかけて神門、回廊、参集殿などを完成させ、昭和53年には途絶えていた天下祭りにふさわしい山王神幸祭が復活したそうです。

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山王祭といえば「神幸祭」です。始まりは二代将軍秀忠公の元和2年(1616)からといわれています。将軍が上覧されるようになり江戸時代を通じてこれが恒例となったそうです。


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山王祭の神幸行列は「神輿行列」と「山車行列」で構成されています。山車行列は氏子の町々(百六十余町)が単独或いは類で参加し、山車の数45台と決められたが、附祭である踊屋台、練り物に趣向が凝らされ、華美に亘るとしてしばしば禁制をもって取締りがありました。
しかし、明治維新後、府内の主要な道路に電気が通り、高さ4メートルの電線が巡らされるようになると、山車、錦旗は通行が難しくなり、やがて神輿に取って代わっていきました。
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山王祭の巡行は神輿と山車の巡行です。それに太鼓をたたいたり踊ったりして神様のお供や先導をする役目の人の行列で構成されます。
江戸時代の山王祭では、45番もの山車が引き出され、その行列は江戸の町を埋め尽くさんばかりだったそうですが、明治維新後様々な事情により山車の巡行から神輿の渡御へと移り変わりました。後に、関東大震災や戦災により多くの山車、人形が焼失したが、各地に渡り今もその土地で大事に管理されているものがあるとのこと。

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山車や神輿もあるものの、神田祭や各地のお祭りで出汁をぶつけ合うとか水を掛け合うような激しい動きはなく、整然と練り歩く静かな巡行となっているのが特徴。

       車道脇に咲く葵の花、正に都会の6月の風物詩
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       国会議事堂前、国の中心地を行く
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お祭りと言えば”わっしょい、わっしょい”と威勢の良い掛け声がつきものですが、この山王神幸祭は雅やかさを感じさせる。将軍がご覧になったとか、或いは天皇家とのつながりの関係なのか
下町のお祭りとは一線を画しているのは面白い。500年にもわたる歴史の中に環境の変化にも耐え残された伝統文化のその由来を知ることもまた楽しい。







日枝神社 山王神幸祭<文化・風物詩>

住 所:〒100-0014 東京都千代田区永田町2-10-5
電 話 :03-3581-2471

交 通:
地下鉄(千代田線)赤坂駅(出口2)徒歩3分
地下鉄(南北線・銀座線)溜池山王駅(出口7)徒歩3分
地下鉄(千代田線)国会議事堂前駅(出口5)徒歩5分
地下鉄銀(座線・丸の内線)赤坂見附駅(出口11)徒歩8分

















<記中コメントは日枝神社公式HPおよび見聞時の聞き取りによる>


























by konmasa1024 | 2018-06-11 14:16 | 文化・風物詩
2018年 06月 10日
牛久シャトー<歴史的建造史跡>
茨城県 JR常磐線 牛久駅より徒歩7分、この歴史的建造物牛久シャトーがあります。
創業者 神谷傳兵衛がフランスより学んだ知識をもとに建てた本格的ワイナリー施設。

       正面入口より本館(1903年、明治36年築)を望む
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初代神谷傳兵衛は1856(安政3)年、神谷兵助の六男として三河国幡豆郡松木島村(現:愛知県西尾市一色町)の豪農の家に生まれます。しかし、実家が没落したため、幼くして働きに出て転々と奉公します。傳兵衛の姉の嫁ぎ先である尾張国知多地方は古来から銘酒の産地であり、そこで観る酒造家はみな裕福で豊かな生活をしておりました。その様子を見て酒を商いすることに興味を持ったと言います。わずか8歳の時だったとのこと。

       本館(現在一般公開はされておりません。)
 
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その傳兵衛が特に洋酒に興味を持ったのは、横浜の外国人居留地でフランス人が経営するフレッレ商会という洋酒醸造所で働いていた1873(明治6)年17歳の時。そんなある日原因不明の激しい腹痛に襲われましたが、その時飲ませてもらった葡萄酒がきっかけで病気はすっかり治たそうです。 傳兵衛はこの時、葡萄酒が持つ滋養効果を知ったのでした。

       国・重要文化財「旧醗酵室」(現 神谷傳兵衛記念館)
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傳兵衛は高価過ぎる葡萄酒を日本人の誰もが飲めるよう国内醸造ができないものか、それを将来の本業にしようと考えるようになりました。傳兵衛は24歳で一人立ちし、1880(明治13)年浅草に「みかはや銘酒店」というにごり酒の一杯売りを開業しました。さらに、国内での洋酒の需要が高くなってきたのに目をつけ、輸入葡萄酒を再製した日本人の口に合う甘い葡萄酒「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」として世に知られることとなったのです。そして、やがては葡萄栽培からワイン醸造までを一貫して行える一大事業を起こしたいと考えるようになりました。
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「蜂印」の名称は、かつて傳兵衛が「Beehive(蜂の巣箱)」というフランス産ブランデーの記憶から、「香竄(こうざん)」は父兵助の俳句の雅号から親のご恩を忘れないためにと名付けられたもの。この言葉のなかに「隠しても隠し切れない、豊かなかぐわしい香り(まるで樽のなかの卓越したワインのように)」という意味があることに因むそうです。

      写真は旧醗酵室(現神谷傳兵衛記念館)1階
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2階、当時のワイン造りの資料とともに神谷傳兵衛の足跡を展示
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       2階、当時のワインの瓶詰機
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子宝に恵まれなかった傳兵衛は、兄圭介の長女・誠子を養女とし、働き者で研究熱心と評判の高かった小林傳蔵を婿養子として迎えました。そして、傳蔵はフランスのボルドー地区の醸造場で葡萄栽培の方法を学び、機械の操作、醸造の仕方なども習得。傳蔵の帰国後、早速最適な土地を探し始めた傳兵衛は、茨城県稲敷郡岡田村の原野、女化原(現:茨城県牛久市)の23町歩に苗木6,000本を移植。「神谷葡萄園」と名づけられたこの葡萄園が成功、本格的な牛久進出を決意したようです。

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そして、1901(明治34)年3月、傳兵衛は本格的なワイン醸造場「牛久醸造場(現:牛久シャトー)」の建築に着手、ボルドー地区の最新様式を採り入れ、それに傳蔵の実地経験により改良が加えられ1903(明治36)年9月、傳兵衛の夢であった本格的なワイン醸造場が完成。本館正面には“CHATEAU D.KAMIYA”の文字が刻まれました。

       牛久シャトー内の敷地に施されたワイン樽の物置
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       敷地内のブドウ園で栽培中のぶどう
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神谷傳兵衛記念貨に解説されているワイン造りに掛けた熱い情熱、幾多の困難を越え完成させた諦めない心、胸打つものがあります。なぜワイン?なぜ牛久?多くの疑問は解けました。

傳兵衛は、事業のかたわら、生涯を通して数多くの文化事業や慈善事業に精力的に取り組みました。大きな災害が起こるたびにただちに救済活動を行い、羅災窮民のために金穀や衣類、農具を支給したといいます。また教育や神社仏閣、社会公益事業への関心も高く、多くの寄付をしとのこと。志を高く、熱い気持ちで、一生涯やり抜く・・・、先人の思いに学びたいものです。







牛久シャトー(現 神谷傳兵衛記念館)

所在地:〒300-1234 茨城県牛久市中央3-20-1
定休日:無休(年末年始を除く)
電話番号:029-873-3151(代)
交 通:JR 常磐線「牛久駅」東口下車 徒歩約8分









<記中コメントは「牛久シャトー」公式HPおよび掲示パンフレットによる。>















by konmasa1024 | 2018-06-10 10:14 | 歴史的建造史跡