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カテゴリ:歴史的建造史跡( 139 )

2019年 06月 01日
水戸弘道館<歴史的建造史跡>

水戸と言えば最初に思い出すのは黄門さま水戸光圀公。常陸水戸藩の第2代藩主であります。そして明治維新にも影響を与えた尊王攘夷に繋がる歴史書「大日本史」の編纂を始めた人です。
水戸藩に脈々と流れる水戸学と言う学問思想。その学びの中心藩校「弘道館」の見聞記です。

弘道館正門
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弘道館正面玄関
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弘道館の中心、藩主が出座する「正庁」に面した縁側
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「正庁」
二十四畳敷のこの部屋は藩主が出座する正席の間で二の間・三の間から成り、藩主以下重鎮が臨席して文武の試験や諸藩の儀式が行われたところ。
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前庭
武術の場合はこの前庭にある大楠の下の対試場で行われ、藩主・重臣はこの正席の間からご覧になったと言う。
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縁側の長押(軒下部分)に掲げられた扁額
「遊於藝」と書かれたこの扁額は論語の言葉にあり、学問武芸に凝り固まらず悠々楽しみながら勉強すると言う意味とか。ここで言う芸とは礼儀作法、音楽、弓、馬、習字、算術の他に弘道館では他にも主要科目を増やしていた
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「至善堂」
明治維新に将軍職を辞した徳川慶喜公が恭順の意を表し、静かに朝廷の命を待っていたところ
「至善」とは最上最高の善。人間は最高善に達し、かつその状態を維持することを理想とすべきだと言う意味とか。
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水戸学の道と水戸城址
水戸城は何度かの火災と空襲により破壊され現在その姿を見ることが出来ないですが、その面影をたどるように「水戸学の道」という名で周遊することが出来ます。
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今も学問の中心
整備が続く「水戸学の道」は多くの伝統ある小学校、中・高、大学とが集中する、正に学問の道です。
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藩校は全国各地に残っていますが、規模の点でもこの弘道館は全国有数。学問に力を注いでいた水戸藩の思いが詰め込まれたように感じます。




水戸「弘道館」<歴史的建造史跡>
住 所 : 茨城県水戸市三の丸1丁目6番内。
連絡先 : 茨城県水戸土木事務所偕楽園公園課 
      029-244-5454
交 通 : JR水戸駅北口から徒歩7分
開 園 : 午前9時~  休館日は12月29日―31日








(記事中のコメントは館内掲示板、解説による)

















by konmasa1024 | 2019-06-01 17:51 | 歴史的建造史跡
2019年 01月 13日
黒田清輝記念館<歴史的建造史跡>
昭和初期に建てられた美術館建築として貴重だと言うことから国の登録有形文化財に指定された黒田清輝記念館は上野東京芸術大学の横に位置します。
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黒田記念館は、日本近代洋画の父とも言われる黒田清輝が大正13(1924)年の死去に際して、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言したことを受けて設立されました。東京美術学校教授であった建築家岡田信一郎(1883-1932)の設計により昭和3(1928)年に竣工しました。
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by konmasa1024 | 2019-01-13 17:18 | 歴史的建造史跡
2018年 12月 20日
旧伊藤博文邸(滄浪閣)

旧伊藤博文邸(滄浪閣、そうろうかく)は、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文にゆかりのある別荘です。
JR大磯に近い国道1号線は旧東海道の風情が残る並木道となっています。毎年年始に行われる箱根駅伝の中継で観られるおなじみの道。滄浪閣はそんな湘南の海が望める街道沿いの別荘地にあります。
そして、明治期の立憲政治の確立等に貢献した先人の業績等を後世に伝えるため、歴史的遺産である旧伊藤博文邸(滄浪閣)等の邸宅を含め一帯は明治記念大磯邸園として整備されています。
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     伊藤博文は明治18 年(1885)に我が国初の総理大臣となり、明治38 年からは韓国統監に就任、
     明治42 年に銃弾に倒れました。
      明治23 年になり伊藤博文は、小田原十字町に別邸を設け「滄浪閣」と名付けましたが、
     梅子夫人の療養のため、明治29 年ここ大磯に移した後、本籍を東京から大磯に移し、
     ここを本邸として使用しました。
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       明治42年博文氏の亡くなった後は養子博邦に継がれ、その後朝鮮京城府李王職李載克に
       譲渡されました。大正12 年の関東大震災で被害を受けましたが、現存する建物はその際に
       再建された建物です。戦後には、米軍に接収され、軍人の施設として使用されました。
       昭和26 年(1951)に西武鉄道が購入、昭和29 年から平成19 年まで大磯プリンスホテル別館
       として「滄浪閣」の名称を残し営業していました。
       この間に行われた改築等により当初の状況をとどめているのは洋室棟と和室棟のほか、
       小屋組等の軸組は旧状を残しているものの、間仕切りや仕上げ材などは改変されました。
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       今日は、記念事業として期限付きで一般公開されていると言うことで、
       滄浪閣と並んで建てられている旧大隈重信邸や旧陸奧宗光邸も見学することが出来ました。

         旧大隈重信邸

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          旧陸奧宗光邸
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今回は明治記念150年記念事業として特別公開されたものです。当日はガイドさんがついて解説しながら見学させていただく贅沢な見学会でした。ただ、政府の肝いりで立ち上げられた企画のせいか、事業主の不慣れなせいか、事前の予約から当日解除の受付に至るまでどことなく機械的で温かみの薄いものでした。さらに、肝心の旧伊藤博文邸は内部見学もなく(耐震性の問題?)復元整備も不十分で、記念公開自体が早すぎた感が否めません。誠に残念なことでした。



明治記念大磯邸園、旧伊藤博文邸
所在地:神奈川県中郡大磯町西小磯85
なお、12月24日で公開期間が終了となっております。その後については大磯町教育委員会にお問い合わせ願います。



<記中コメントは公式ホームページ及び当日配布のパンフレットによる>





by konmasa1024 | 2018-12-20 16:28 | 歴史的建造史跡
2018年 09月 17日
世田谷、旧山田家住宅<歴史的建造史跡>
旧山田家住宅は昭和12年(1937)頃に建設されました。寄棟造りの建物で、褐色のフランス瓦で葺いた屋根をもつ洋館です。建築主は楢崎定吉と言う人で、アメリカで事業を成功させた実業家だと言う他はあまり語られておらず、建設の経緯がよくわかりませんが、楢崎定吉の子供を成城学園に通わせたいと言う思いからこの成城の地に自宅を建てたと言われているようです。
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その後、1962年(昭和36年)に日本画の画家で「南画院」の代表として活躍した山田劉生(雅号、耕雨)が購入して住まいとしていたそうです。

        門からアプローチを経て玄関ポーチに至る
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さて、この建物を語る前に、少し成城の町を知っておきましょう。
最寄り駅である小田急線「成城学園前駅」を下りて成城学園方向に向かって気づくことですが、街並みが碁盤の目のように綺麗に区画整理が行き届いています。そして四つ角の四隅が切り取られた状態にあるため、どちら方向から来ても四つ辻が見通しの良いことを感じます。
この地は、電鉄系でもなく大手不動産デベロッパーでもない成城学園が学園都市を目指して自ら開発した住宅街だそうです。そして、施主である楢崎定吉は息子を成城学園に通わせたくて土地を購入しこの建物を建てたたと伝えられる。

        玄関を入ると、右に客室、左に広間に次いで食堂、その奥に居間と続く。
        この写真は食堂。2階への階段もこちらから。
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        居間

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        居間の南側に庭に面してサンルーム(建てた当時は半外部のベランダでしたが
        後に窓ガラスをたて込み室内にしたようです。)

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              階段脇のステンドグラス
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居室はほぼ洋室で、寄木張りの床

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この住宅の特徴は、核溶質や廊下はそれぞれ模様を変えた寄木造と凝った仕様にしている点や、窓は統一した意匠の上げ下げ窓を多用している点があげられる。このほかランドリーシュートを設ける工夫など、施主の生活文化に対する意識が反映されており、当時成城に住んでいた人の生活の様子が伺える。


         1階、2階とも中廊下を配し機能ごとに部屋が細かく分けられています。
         これは2階部の中廊下

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          この建物で唯一の書院造風の日本間。

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        外観の洋風を維持する関係から外壁から一歩引いて作られています。
        右外壁側、左日本間
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この旧山田家住宅は国分寺崖線上にあり多摩川の河岸段丘で緑や湧き水などの豊かな自然が残されています。そして、この建物の後ろは奥深い森が広がり「みつ池」と呼ばれる湧き水がありホタルの自生地として知られています。
アトリエとして使用されていたのは十分理解できます。

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旧山田家住宅<歴史的建造史跡>
住 所:東京都世田谷区成城4-20-25
T E L : 03-5432-2726 世田谷区教育委員会事務局
        生涯学習・地域学校連携課文化財係
交 通:小田急線「成城学園前」駅西口より徒歩7分
休館日:毎週月曜日・年末年始









<記中コメントは当時配布パンフレット及び当日の解説者より>
















by konmasa1024 | 2018-09-17 22:10 | 歴史的建造史跡
2018年 06月 10日
牛久シャトー<歴史的建造史跡>
茨城県 JR常磐線 牛久駅より徒歩7分、この歴史的建造物牛久シャトーがあります。
創業者 神谷傳兵衛がフランスより学んだ知識をもとに建てた本格的ワイナリー施設。

       正面入口より本館(1903年、明治36年築)を望む
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初代神谷傳兵衛は1856(安政3)年、神谷兵助の六男として三河国幡豆郡松木島村(現:愛知県西尾市一色町)の豪農の家に生まれます。しかし、実家が没落したため、幼くして働きに出て転々と奉公します。傳兵衛の姉の嫁ぎ先である尾張国知多地方は古来から銘酒の産地であり、そこで観る酒造家はみな裕福で豊かな生活をしておりました。その様子を見て酒を商いすることに興味を持ったと言います。わずか8歳の時だったとのこと。

       本館(現在一般公開はされておりません。)
 
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その傳兵衛が特に洋酒に興味を持ったのは、横浜の外国人居留地でフランス人が経営するフレッレ商会という洋酒醸造所で働いていた1873(明治6)年17歳の時。そんなある日原因不明の激しい腹痛に襲われましたが、その時飲ませてもらった葡萄酒がきっかけで病気はすっかり治たそうです。 傳兵衛はこの時、葡萄酒が持つ滋養効果を知ったのでした。

       国・重要文化財「旧醗酵室」(現 神谷傳兵衛記念館)
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傳兵衛は高価過ぎる葡萄酒を日本人の誰もが飲めるよう国内醸造ができないものか、それを将来の本業にしようと考えるようになりました。傳兵衛は24歳で一人立ちし、1880(明治13)年浅草に「みかはや銘酒店」というにごり酒の一杯売りを開業しました。さらに、国内での洋酒の需要が高くなってきたのに目をつけ、輸入葡萄酒を再製した日本人の口に合う甘い葡萄酒「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」として世に知られることとなったのです。そして、やがては葡萄栽培からワイン醸造までを一貫して行える一大事業を起こしたいと考えるようになりました。
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「蜂印」の名称は、かつて傳兵衛が「Beehive(蜂の巣箱)」というフランス産ブランデーの記憶から、「香竄(こうざん)」は父兵助の俳句の雅号から親のご恩を忘れないためにと名付けられたもの。この言葉のなかに「隠しても隠し切れない、豊かなかぐわしい香り(まるで樽のなかの卓越したワインのように)」という意味があることに因むそうです。

      写真は旧醗酵室(現神谷傳兵衛記念館)1階
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2階、当時のワイン造りの資料とともに神谷傳兵衛の足跡を展示
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       2階、当時のワインの瓶詰機
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子宝に恵まれなかった傳兵衛は、兄圭介の長女・誠子を養女とし、働き者で研究熱心と評判の高かった小林傳蔵を婿養子として迎えました。そして、傳蔵はフランスのボルドー地区の醸造場で葡萄栽培の方法を学び、機械の操作、醸造の仕方なども習得。傳蔵の帰国後、早速最適な土地を探し始めた傳兵衛は、茨城県稲敷郡岡田村の原野、女化原(現:茨城県牛久市)の23町歩に苗木6,000本を移植。「神谷葡萄園」と名づけられたこの葡萄園が成功、本格的な牛久進出を決意したようです。

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そして、1901(明治34)年3月、傳兵衛は本格的なワイン醸造場「牛久醸造場(現:牛久シャトー)」の建築に着手、ボルドー地区の最新様式を採り入れ、それに傳蔵の実地経験により改良が加えられ1903(明治36)年9月、傳兵衛の夢であった本格的なワイン醸造場が完成。本館正面には“CHATEAU D.KAMIYA”の文字が刻まれました。

       牛久シャトー内の敷地に施されたワイン樽の物置
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       敷地内のブドウ園で栽培中のぶどう
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神谷傳兵衛記念貨に解説されているワイン造りに掛けた熱い情熱、幾多の困難を越え完成させた諦めない心、胸打つものがあります。なぜワイン?なぜ牛久?多くの疑問は解けました。

傳兵衛は、事業のかたわら、生涯を通して数多くの文化事業や慈善事業に精力的に取り組みました。大きな災害が起こるたびにただちに救済活動を行い、羅災窮民のために金穀や衣類、農具を支給したといいます。また教育や神社仏閣、社会公益事業への関心も高く、多くの寄付をしとのこと。志を高く、熱い気持ちで、一生涯やり抜く・・・、先人の思いに学びたいものです。







牛久シャトー(現 神谷傳兵衛記念館)

所在地:〒300-1234 茨城県牛久市中央3-20-1
定休日:無休(年末年始を除く)
電話番号:029-873-3151(代)
交 通:JR 常磐線「牛久駅」東口下車 徒歩約8分









<記中コメントは「牛久シャトー」公式HPおよび掲示パンフレットによる。>















by konmasa1024 | 2018-06-10 10:14 | 歴史的建造史跡
2018年 03月 05日
西洋館(菊池寛実記念 智美術館内)
この建物は明治時代の有力な煙草商人であった千葉松兵衛氏の本家に当たる千葉亀之助氏の私邸として大正15年(1925)に竣工した。その後昭和23年(1948)に炭鉱王であり京葉ガスを設立した実業家菊池寛実氏が譲り受けたもの。
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地下鉄虎の門駅より徒歩15分アメリカ大使館、ホテルオークラのある江戸見坂の高台に位置する。菊池寛実氏が所有していたこの敷地内には現代陶芸のコレクターとして知られる娘の菊池智氏のコレクションと全国の現代陶芸作家の作品紹介を目的に2003年に建てられた智美術館とが併設された形になっています。現在智美術館が建っているところには母屋に当たる和館があり、西洋館とは渡り廊下で繋がっていたようです。

      智美術館側から西洋館を望む。
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昭和54年火災により和館は全焼失、この西洋館は屋根と2階の一部の焼失で免れたそうです。昭和56年焼失した屋根及び2階部分の修復に際しオーナーである智氏の希望でインテリアデザインをニューヨークのインテリアデザイナー、リチャードナップル氏に依頼。

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 建築様式としては基本的に英国の中世の住宅に観られるチューダー様式、
 大正末期から昭和初期に日本の洋館が手本とした様式を採用しています。
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この洋館は現在も菊池氏により丁寧に使い続けられており、形骸化された文化財としての洋館とは一線を画している。特に内装の精緻なチーク性パネル、ステンドグラス、各種のドレープ、英国スタイルの家具調度品はセンスあふれる素敵なものばかりです。
なお、内部の撮影は不可となっており、見学当日配布されたパンフよりクジャクのステンドグラスがはめられた1階ホールの写真をお借りすることといたしました。

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西洋館及び智美術館の建つ敷地内には江戸時代に作られた日本庭園の他、菊池家の仏間に相当する持仏堂が配されています。
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持仏堂
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有形登録文化財に指定されているこの建物は伝統的な英国スタイルの外観の美しさもありますが、美意識の高い菊池智氏とリチャードナップルの元のインテリアを丁寧に保存しながら内装を整えた、その美しさが素晴らしい。

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西洋館(菊池寛実記念 智美術館内)

住 所 :東京都港区虎ノ門4-1-35
T E L :   03-5733-5131
交 通 :メトロ銀座線虎の門駅下車徒歩15分江戸見坂を上りホテルオオクラ手前

*西洋館の見学は常時行っておらず、問い合わせの後伺ってください。







<記中の記事は剣がっ当日配布されたパンフレットと解説による>























by konmasa1024 | 2018-03-05 15:53 | 歴史的建造史跡
2017年 11月 18日
慶應義塾演説館<歴史的建造史跡>
安政5年(1858年)福澤諭吉は築地・鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設。明治維新後に洋学・特に英語を学習する生徒が殺到し、校舎の増築がままならなかった築地から明治4年(1871年)三田にある島原藩中屋敷跡の現在地に移転。明治45年(1912年)創立50周年を記念して慶應義塾図書館が竣工。

      写真は東門(旧正門)より旧図書館(国・重要文化財指定)を望む
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     三田キャンパスの中でも少し小高くなった場所にあるのが演説館。
     福沢諭吉によって建設されたわが国最初の演説会堂です。
     キャンパスのある三田山は戦時中に空襲で甚大な被害を受けたが
     演説館は破損を免れている。
     開館した明治8年(1875)5月1日には今の塾監局が建っている
     北端のあたりにあったが、大正13年(1924)に現在のところに移築された。

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     なまこ壁の壁面には上下に開閉する洋風のガラス窓がつく。
     玄関の屋根は和風の切妻造で瓦が乗る。幕末~明治初頭に流行した和洋折衷様式、
     いわゆる擬洋風(ぎようふう)建築です。
     構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられ、
     明治初期の洋風建築としてはきわめて珍しい遺構とされている。
     規模は床面積191㎡余、一部が2階造りになっていて、延面積は280㎡余になる。


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      内部は一部左右に2階席があるシンプルな講堂。白い壁に木彫の椅子席が
      落ち着く。
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       壇上のバックの壁は声が響きやすいように曲面を描いている。
       壇上の福沢諭吉の肖像画、一万円札でお馴染みだが、
       身体全体が収まると堂々としている。
       ”Speech”を”演説”と訳したのが福沢諭吉であることを初めて知った。

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    演壇にも座席の背もたれにも慶應のシンボルマークのペンマークが・・・、
    「ペンには剣に勝る力あり」を表す。

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今で言う講演会が開かれた会堂、江戸時代から明治維新へ、世の中が大きく変化するなかで建物のデザインは和洋折衷、学問の分野であれ社会の仕組みであれ試行錯誤しながらの和洋折衷。そんな中にあって将来を見据えた福沢諭吉の高い志を感じ取れた演説館見学のひと時でした。








慶應義塾演説館<歴史的建造史跡>

住 所:〒108-8345 東京都港区三田2-15-45 慶應義塾三田キャンパス内
問い合わせ:03-5427-1621 慶應義塾大学アート・センター
交 通:JR山手線田町駅、地下鉄都営線三田駅より徒歩7~8分
公 開:内部公開は不定期 事前に問い合わせをお勧めします。







<記中のコメントは当日配布のパンフレット及び現地告示看板及びHatena Blog「墳丘からの眺め」より抜粋させていただきました。>












by konmasa1024 | 2017-11-18 20:55 | 歴史的建造史跡
2017年 11月 17日
旧李王家東京邸<歴史的建造史跡>
<未完成> 現在コメント調整中、もうしばらくお待ちください。





元は紀伊徳川家のお屋敷があった場所である東京ガーデンテラス紀尾井町の中に佇む
このレトロな館は英国チューダー・ゴシック様式の洋館「旧李王家東京邸」。

正面玄関に向かって
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      車寄せ
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玄関ポーチよりエントランスルーム
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この建物は、旧宮内省内匠寮の公務長・北村耕造や技士・権藤要吉らの設計により1930年に造られました。2011年には、東京都指定有形文化財にも指定されています。 赤坂プリンスホテルの旧館として長年、親しまれていたこの建物がリノベーションされて、レストラン・結婚式会場「赤坂プリンス クラシックハウス」として装いを新たに開業しています。

     2階への階段
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李王家とは

李王家の当主李垠(り ぎん/イ ウン)は、大韓帝国最後の皇帝・高宗(こうそう)の第七男子として1897(明治30)年10月20日に誕生。1907(明治40)年7月に大韓帝国の皇太子になるも、朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きにより同年12月、日本に留学。 伊藤博文らの扶養を受けることになりました。李垠は、1910(明治43)年の日韓併合により身分は王世子、 日本の皇族に準ずる王族との待遇となり、敬称は「殿下」。妻の李方子(り・まさこ/イ・バンジャ)は1901(明治34)年11月4日に、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生まれました。昭和天皇のお妃候補の一人でもあった方子は、学習院女子中等科 在学中の15歳の時に、梨本宮家の大磯別邸滞在中、何気なく手に した新聞記事で、自らの婚約を知りショックを受けたといいます。李垠と、方子の結婚は日韓併合後の「内鮮一体」(日本人も朝鮮人も、全て日本国民)を目的とする政略結婚でした。
終戦後の1947年(昭和22年)11宮家51名は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられたため、経済的に従来の規模の皇室を維持できなくなったことから皇室離脱することになりました。
李王家もこの時に皇室離脱、同時に無国籍の在日韓国人となった。そして課せられた巨額の財産税のために邸宅を手放すしかありませんでした。
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        階段踊り場にあるステンドグラス
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館内至る所に飾り物が施され、

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既存部:鉄筋コンクリート造(一部木造)、2階建て塔屋付
増築部(バンケット):鉄骨鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)、2階建て
現在はレストラン、カフェバー

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無国籍になって以降すぐに大韓民国の国籍復帰を願い出ますが叶わず、一時日本国籍を得ますが、1962(昭和37)年12月15日、韓国政府から李垠・李方子夫妻に大韓民国国籍の回復が告示されました。そして、1963(昭和38)年11月22日に帰国した李垠・李方子夫妻を沿道で大歓迎で出迎えます。しかし念願がかなって帰国した李垠は、脳血栓と脳軟化症で意識はなく、7年後の1970(昭和45)年5月1日、72歳で亡くなりました。

一方、韓国に帰化した李方子は、李垠の死後も韓国にとどまり、当時韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育に取り組んだり韓国にいる日本人妻達の集まりを作るなどして精力的に活動します。

知的障害児施設『明暉園(めいきえん/ミョンヒウォン)』等の施設を設立していますが、「明暉」は、李垠の雅号。

彼等の結婚は「内鮮一体(日本人も朝鮮人も、全て日本国民)」との政略結婚でしたが、李方子は夫・李垠の国の人間となりきろうと帰化をして生涯、夫に添い遂げました。時代の荒波に飲み込まれ、翻弄された」という月並みな形容が陳腐に思えるほどの李垠と李方子の生涯でした。













旧李王家東京邸<歴史的建造史跡>
住 所:東京都千代田区紀尾井町1番2号
現名称:赤坂プリンスクラシックハウス
交 通:地下鉄東京メトロ赤坂駅徒歩3分

公式サイト:https://akasakaprince.com/

















<記中コメントは当日の配布パンフ及びHP「あぷりのお茶会」より一部転載させていただいております。












by konmasa1024 | 2017-11-17 20:59 | 歴史的建造史跡
2017年 04月 01日
大磯「旧吉田茂邸」<復元歴史的建造物>
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この旧吉田邸は2009年に原因不明の火災により焼失してしまいました。その後大磯の地元及び大磯町が再建事業を具体化し、寄付や神奈川県の援助を得てこの度工事完成を機に一般公開されたものです。焼け残った門以外は主屋と新館すべてを再現、戦後復興期に首相を務めた大政治家の自邸での生活ぶりを垣間見れる場となりました。
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               二本の轍をすぎると左手に見える主屋に続く新館全景

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               主屋の玄関を入るとガラス張りの明るい坪庭を配した玄関ホール 
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右に応接間として使われた「楓の間」
暖炉の周りにソファーが配され、焼失前はこの部屋にも執務机が置かれていたようです。e0101172_21085835.jpg















玄関ホール左側の食堂「ローズルーム」はアール・デコ風意匠
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2階は和室の応接間兼書斎
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2階の湘南の海が見える部屋の一角には掘りごたつのついた執務机
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            首相官邸と繋がった黑電話。ダイヤルが無いってことは受話器を上げれば直接つながる仕組み
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2階のお風呂は大磯の船大工がかかわったと言う舟形の浴槽
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吉田茂と言う人: 吉田茂は明治11年(1878)高知県出身の自由民権運動家である竹内綱の5男と生まれ、かねてより竹内の親友である実業家の吉田健三の養子となりました。この吉田茂邸の敷地は吉田健三の別荘の地でありました。東大を卒業した吉田は外務省に入省、外務次官を歴任、戦前戦後を通して戦争回避、和平工作を行った。戦後最初の発足した東久邇宮内閣で外相を務め昭和天皇とマッカーサーのの会見を橋渡し、マッカーサーに天皇制の全敗はアメリカの占領政策に不利であることを理解させたと言われています。
昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争を機に日本の再軍備をマッカーサーに要求されましたが経済第一主義を主張して拒否しました。
翌年8月吉田を主席とする6名の興和全権団がサンフランシスコに向かい、講和会議が開かれ日本は独立を果たしました。
昭和29年(1954)に発生した造船疑獄事件が起こり辞職するが、昭和21年(1946)~8年間5次内閣まで日本の戦前戦後の混乱期をリードした名高い政治家です。







大磯 旧吉田茂邸
住 所:〒255-0005 神奈川県中部大磯町西小磯418
問い合わせTEL: 0463-61-4777
交 通: JR東海道線「大磯駅」下車  バス「二宮駅行き」「国府津駅行き」「湘南大磯住宅行き」で城山公園前下車
休館日:毎週月曜日 開館時間:9:00~16:30








<記中コメントは当日配布のパンフレット及び掲示説明版による>













by konmasa1024 | 2017-04-01 17:08 | 歴史的建造史跡
2017年 02月 10日
黒澤ビル(旧小川眼科病院)<歴史的建造物>
この黒澤ビルは昭和4年(1929)眼科の医者であった小川剣三郎氏が建てたものです。ビルの名前に黒澤とあるのは、このビルが竣工してから4年にして脳溢血で急逝した小川剣三郎の後を継いだ黒澤潤三氏が医院長となり、維持してきたことによります。

            場所は上野不忍池より歩いて1分
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           現在も歯科医院が入居しており、この正面入り口からの出入りがあります。
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このビルの特徴は当時としては斬新なビル前面のデザインですが、それにもまして内部に設置された多くのステンドグラスではないかと思います。このステンドグラスは剣三郎氏の実兄に当たる小川三知氏からこのビルの新築に際し贈られたもの。

小川三知氏は慶応3年(1867)静岡市で医師として活躍していた小川清斎氏の次男として生まれました。早逝した兄の代わりに家督を継ぐため医師を目指して一高に進みました。その後東京芸術学校の開校に合わせて転向、絵画の道に進みます。
アメリカにわたり西洋画を学び、やがてガラス会社を渡り歩きながらステンドグラスの制作技術を学びます。そして明治44年ステンドグラスの材料を携えて帰朝する。自ら田端に工房「小川スツヂオ」と住居を構え、本格的にステンドグラス製作にはげみ、大正時代のステンドグラス界をリードした人。

正面玄関外側の扉のランマに挟まっているステンドグラスー鶏銘告暁ー

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           玄関を入ってすぐ左に応接室があり、部屋の中には多くのステンドグラスがはめられています。
           下の写真の天井の電気傘は六角形で各辺に草と動物や鳥を配置している。
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       さらに電気傘の下には中央部にカットされた半球形の硝子を接着しその周りに裸婦と草、
       そして十字のカットがちりばめられています。
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           小川三知氏が習得したステンドグラス製作に必要な数々の技法がふんだんに使われた作品を
           見ることが出来ます。
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小川三知氏は昭和3年に死去しているので、昭和4年に竣工したこの建物は建設途中であっただろうと思います。自分に代って家督を継いでくれた弟のためにどうしても完成させたい物件だったに違いありません。そしてデザインも自らの集大成と考えていたことでしょう。その意味で、大変思いのこもったステンドグラスだったと思います。


この建物は登録有形文化財に指定されており、月に一度のペースで公開されています。
建物は現在も現役ビルとして使われており、各部屋には入ることはできませんが、玄関、ロビー、応接室、階段回り、屋上など解説員が丁寧に説明してご案内いただけます。建物を見ると言うよりは全体として昭和レトロを感じるには十分ですが、肝心のステンドグラスを通過する光が不足しているのか、少し暗く陰気に見えるところが残念。これが自然で、建設当時のままが良いと言えるかもしれませんが・・・。
                                          



黒澤ビル(旧小川眼科病院)

住 所 :〒110-0005 台東区上野東京都台東区上野2-11-6
問い合わせ先: 有限会社黒沢ビル管理(TEL)03-3835-1011

交 通 :地下鉄 千代田線湯島駅 徒歩2分、地下鉄 銀座線 上野広小路駅 徒歩4分
公式HP :http://www.kurosawa-bldg.com/index.html




<記中のコメントは公式ホームページによる>
















    by konmasa1024 | 2017-02-10 11:55 | 歴史的建造史跡