カテゴリ:歴史的建造史跡( 136 )

2018年 09月 17日
世田谷、旧山田家住宅<歴史的建造史跡>
旧山田家住宅は昭和12年(1937)頃に建設されました。寄棟造りの建物で、褐色のフランス瓦で葺いた屋根をもつ洋館です。建築主は楢崎定吉と言う人で、アメリカで事業を成功させた実業家だと言う他はあまり語られておらず、建設の経緯がよくわかりませんが、楢崎定吉の子供を成城学園に通わせたいと言う思いからこの成城の地に自宅を建てたと言われているようです。
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その後、1962年(昭和36年)に日本画の画家で「南画院」の代表として活躍した山田劉生(雅号、耕雨)が購入して住まいとしていたそうです。

        門からアプローチを経て玄関ポーチに至る
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さて、この建物を語る前に、少し成城の町を知っておきましょう。
最寄り駅である小田急線「成城学園前駅」を下りて成城学園方向に向かって気づくことですが、街並みが碁盤の目のように綺麗に区画整理が行き届いています。そして四つ角の四隅が切り取られた状態にあるため、どちら方向から来ても四つ辻が見通しの良いことを感じます。
この地は、電鉄系でもなく大手不動産デベロッパーでもない成城学園が学園都市を目指して自ら開発した住宅街だそうです。そして、施主である楢崎定吉は息子を成城学園に通わせたくて土地を購入しこの建物を建てたたと伝えられる。

        玄関を入ると、右に客室、左に広間に次いで食堂、その奥に居間と続く。
        この写真は食堂。2階への階段もこちらから。
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        居間

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        居間の南側に庭に面してサンルーム(建てた当時は半外部のベランダでしたが
        後に窓ガラスをたて込み室内にしたようです。)

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              階段脇のステンドグラス
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居室はほぼ洋室で、寄木張りの床

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この住宅の特徴は、核溶質や廊下はそれぞれ模様を変えた寄木造と凝った仕様にしている点や、窓は統一した意匠の上げ下げ窓を多用している点があげられる。このほかランドリーシュートを設ける工夫など、施主の生活文化に対する意識が反映されており、当時成城に住んでいた人の生活の様子が伺える。


         1階、2階とも中廊下を配し機能ごとに部屋が細かく分けられています。
         これは2階部の中廊下

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          この建物で唯一の書院造風の日本間。

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        外観の洋風を維持する関係から外壁から一歩引いて作られています。
        右外壁側、左日本間
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この旧山田家住宅は国分寺崖線上にあり多摩川の河岸段丘で緑や湧き水などの豊かな自然が残されています。そして、この建物の後ろは奥深い森が広がり「みつ池」と呼ばれる湧き水がありホタルの自生地として知られています。
アトリエとして使用されていたのは十分理解できます。

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旧山田家住宅<歴史的建造史跡>
住 所:東京都世田谷区成城4-20-25
T E L : 03-5432-2726 世田谷区教育委員会事務局
        生涯学習・地域学校連携課文化財係
交 通:小田急線「成城学園前」駅西口より徒歩7分
休館日:毎週月曜日・年末年始









<記中コメントは当時配布パンフレット及び当日の解説者より>















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by konmasa1024 | 2018-09-17 22:10 | 歴史的建造史跡
2018年 06月 10日
牛久シャトー<歴史的建造史跡>
茨城県 JR常磐線 牛久駅より徒歩7分、この歴史的建造物牛久シャトーがあります。
創業者 神谷傳兵衛がフランスより学んだ知識をもとに建てた本格的ワイナリー施設。

       正面入口より本館(1903年、明治36年築)を望む
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初代神谷傳兵衛は1856(安政3)年、神谷兵助の六男として三河国幡豆郡松木島村(現:愛知県西尾市一色町)の豪農の家に生まれます。しかし、実家が没落したため、幼くして働きに出て転々と奉公します。傳兵衛の姉の嫁ぎ先である尾張国知多地方は古来から銘酒の産地であり、そこで観る酒造家はみな裕福で豊かな生活をしておりました。その様子を見て酒を商いすることに興味を持ったと言います。わずか8歳の時だったとのこと。

       本館(現在一般公開はされておりません。)
 
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その傳兵衛が特に洋酒に興味を持ったのは、横浜の外国人居留地でフランス人が経営するフレッレ商会という洋酒醸造所で働いていた1873(明治6)年17歳の時。そんなある日原因不明の激しい腹痛に襲われましたが、その時飲ませてもらった葡萄酒がきっかけで病気はすっかり治たそうです。 傳兵衛はこの時、葡萄酒が持つ滋養効果を知ったのでした。

       国・重要文化財「旧醗酵室」(現 神谷傳兵衛記念館)
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傳兵衛は高価過ぎる葡萄酒を日本人の誰もが飲めるよう国内醸造ができないものか、それを将来の本業にしようと考えるようになりました。傳兵衛は24歳で一人立ちし、1880(明治13)年浅草に「みかはや銘酒店」というにごり酒の一杯売りを開業しました。さらに、国内での洋酒の需要が高くなってきたのに目をつけ、輸入葡萄酒を再製した日本人の口に合う甘い葡萄酒「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」として世に知られることとなったのです。そして、やがては葡萄栽培からワイン醸造までを一貫して行える一大事業を起こしたいと考えるようになりました。
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「蜂印」の名称は、かつて傳兵衛が「Beehive(蜂の巣箱)」というフランス産ブランデーの記憶から、「香竄(こうざん)」は父兵助の俳句の雅号から親のご恩を忘れないためにと名付けられたもの。この言葉のなかに「隠しても隠し切れない、豊かなかぐわしい香り(まるで樽のなかの卓越したワインのように)」という意味があることに因むそうです。

      写真は旧醗酵室(現神谷傳兵衛記念館)1階
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2階、当時のワイン造りの資料とともに神谷傳兵衛の足跡を展示
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       2階、当時のワインの瓶詰機
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子宝に恵まれなかった傳兵衛は、兄圭介の長女・誠子を養女とし、働き者で研究熱心と評判の高かった小林傳蔵を婿養子として迎えました。そして、傳蔵はフランスのボルドー地区の醸造場で葡萄栽培の方法を学び、機械の操作、醸造の仕方なども習得。傳蔵の帰国後、早速最適な土地を探し始めた傳兵衛は、茨城県稲敷郡岡田村の原野、女化原(現:茨城県牛久市)の23町歩に苗木6,000本を移植。「神谷葡萄園」と名づけられたこの葡萄園が成功、本格的な牛久進出を決意したようです。

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そして、1901(明治34)年3月、傳兵衛は本格的なワイン醸造場「牛久醸造場(現:牛久シャトー)」の建築に着手、ボルドー地区の最新様式を採り入れ、それに傳蔵の実地経験により改良が加えられ1903(明治36)年9月、傳兵衛の夢であった本格的なワイン醸造場が完成。本館正面には“CHATEAU D.KAMIYA”の文字が刻まれました。

       牛久シャトー内の敷地に施されたワイン樽の物置
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       敷地内のブドウ園で栽培中のぶどう
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神谷傳兵衛記念貨に解説されているワイン造りに掛けた熱い情熱、幾多の困難を越え完成させた諦めない心、胸打つものがあります。なぜワイン?なぜ牛久?多くの疑問は解けました。

傳兵衛は、事業のかたわら、生涯を通して数多くの文化事業や慈善事業に精力的に取り組みました。大きな災害が起こるたびにただちに救済活動を行い、羅災窮民のために金穀や衣類、農具を支給したといいます。また教育や神社仏閣、社会公益事業への関心も高く、多くの寄付をしとのこと。志を高く、熱い気持ちで、一生涯やり抜く・・・、先人の思いに学びたいものです。







牛久シャトー(現 神谷傳兵衛記念館)

所在地:〒300-1234 茨城県牛久市中央3-20-1
定休日:無休(年末年始を除く)
電話番号:029-873-3151(代)
交 通:JR 常磐線「牛久駅」東口下車 徒歩約8分









<記中コメントは「牛久シャトー」公式HPおよび掲示パンフレットによる。>














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by konmasa1024 | 2018-06-10 10:14 | 歴史的建造史跡
2018年 03月 05日
西洋館(菊池寛実記念 智美術館内)
この建物は明治時代の有力な煙草商人であった千葉松兵衛氏の本家に当たる千葉亀之助氏の私邸として大正15年(1925)に竣工した。その後昭和23年(1948)に炭鉱王であり京葉ガスを設立した実業家菊池寛実氏が譲り受けたもの。
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地下鉄虎の門駅より徒歩15分アメリカ大使館、ホテルオークラのある江戸見坂の高台に位置する。菊池寛実氏が所有していたこの敷地内には現代陶芸のコレクターとして知られる娘の菊池智氏のコレクションと全国の現代陶芸作家の作品紹介を目的に2003年に建てられた智美術館とが併設された形になっています。現在智美術館が建っているところには母屋に当たる和館があり、西洋館とは渡り廊下で繋がっていたようです。

      智美術館側から西洋館を望む。
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昭和54年火災により和館は全焼失、この西洋館は屋根と2階の一部の焼失で免れたそうです。昭和56年焼失した屋根及び2階部分の修復に際しオーナーである智氏の希望でインテリアデザインをニューヨークのインテリアデザイナー、リチャードナップル氏に依頼。

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 建築様式としては基本的に英国の中世の住宅に観られるチューダー様式、
 大正末期から昭和初期に日本の洋館が手本とした様式を採用しています。
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この洋館は現在も菊池氏により丁寧に使い続けられており、形骸化された文化財としての洋館とは一線を画している。特に内装の精緻なチーク性パネル、ステンドグラス、各種のドレープ、英国スタイルの家具調度品はセンスあふれる素敵なものばかりです。
なお、内部の撮影は不可となっており、見学当日配布されたパンフよりクジャクのステンドグラスがはめられた1階ホールの写真をお借りすることといたしました。

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西洋館及び智美術館の建つ敷地内には江戸時代に作られた日本庭園の他、菊池家の仏間に相当する持仏堂が配されています。
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持仏堂
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有形登録文化財に指定されているこの建物は伝統的な英国スタイルの外観の美しさもありますが、美意識の高い菊池智氏とリチャードナップルの元のインテリアを丁寧に保存しながら内装を整えた、その美しさが素晴らしい。

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西洋館(菊池寛実記念 智美術館内)

住 所 :東京都港区虎ノ門4-1-35
T E L :   03-5733-5131
交 通 :メトロ銀座線虎の門駅下車徒歩15分江戸見坂を上りホテルオオクラ手前

*西洋館の見学は常時行っておらず、問い合わせの後伺ってください。







<記中の記事は剣がっ当日配布されたパンフレットと解説による>






















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by konmasa1024 | 2018-03-05 15:53 | 歴史的建造史跡
2017年 11月 18日
慶應義塾演説館<歴史的建造史跡>
安政5年(1858年)福澤諭吉は築地・鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設。明治維新後に洋学・特に英語を学習する生徒が殺到し、校舎の増築がままならなかった築地から明治4年(1871年)三田にある島原藩中屋敷跡の現在地に移転。明治45年(1912年)創立50周年を記念して慶應義塾図書館が竣工。

      写真は東門(旧正門)より旧図書館(国・重要文化財指定)を望む
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     三田キャンパスの中でも少し小高くなった場所にあるのが演説館。
     福沢諭吉によって建設されたわが国最初の演説会堂です。
     キャンパスのある三田山は戦時中に空襲で甚大な被害を受けたが
     演説館は破損を免れている。
     開館した明治8年(1875)5月1日には今の塾監局が建っている
     北端のあたりにあったが、大正13年(1924)に現在のところに移築された。

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     なまこ壁の壁面には上下に開閉する洋風のガラス窓がつく。
     玄関の屋根は和風の切妻造で瓦が乗る。幕末~明治初頭に流行した和洋折衷様式、
     いわゆる擬洋風(ぎようふう)建築です。
     構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられ、
     明治初期の洋風建築としてはきわめて珍しい遺構とされている。
     規模は床面積191㎡余、一部が2階造りになっていて、延面積は280㎡余になる。


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      内部は一部左右に2階席があるシンプルな講堂。白い壁に木彫の椅子席が
      落ち着く。
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       壇上のバックの壁は声が響きやすいように曲面を描いている。
       壇上の福沢諭吉の肖像画、一万円札でお馴染みだが、
       身体全体が収まると堂々としている。
       ”Speech”を”演説”と訳したのが福沢諭吉であることを初めて知った。

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    演壇にも座席の背もたれにも慶應のシンボルマークのペンマークが・・・、
    「ペンには剣に勝る力あり」を表す。

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今で言う講演会が開かれた会堂、江戸時代から明治維新へ、世の中が大きく変化するなかで建物のデザインは和洋折衷、学問の分野であれ社会の仕組みであれ試行錯誤しながらの和洋折衷。そんな中にあって将来を見据えた福沢諭吉の高い志を感じ取れた演説館見学のひと時でした。








慶應義塾演説館<歴史的建造史跡>

住 所:〒108-8345 東京都港区三田2-15-45 慶應義塾三田キャンパス内
問い合わせ:03-5427-1621 慶應義塾大学アート・センター
交 通:JR山手線田町駅、地下鉄都営線三田駅より徒歩7~8分
公 開:内部公開は不定期 事前に問い合わせをお勧めします。







<記中のコメントは当日配布のパンフレット及び現地告示看板及びHatena Blog「墳丘からの眺め」より抜粋させていただきました。>











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by konmasa1024 | 2017-11-18 20:55 | 歴史的建造史跡
2017年 11月 17日
旧李王家東京邸<歴史的建造史跡>
<未完成> 現在コメント調整中、もうしばらくお待ちください。





元は紀伊徳川家のお屋敷があった場所である東京ガーデンテラス紀尾井町の中に佇む
このレトロな館は英国チューダー・ゴシック様式の洋館「旧李王家東京邸」。

正面玄関に向かって
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      車寄せ
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玄関ポーチよりエントランスルーム
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この建物は、旧宮内省内匠寮の公務長・北村耕造や技士・権藤要吉らの設計により1930年に造られました。2011年には、東京都指定有形文化財にも指定されています。 赤坂プリンスホテルの旧館として長年、親しまれていたこの建物がリノベーションされて、レストラン・結婚式会場「赤坂プリンス クラシックハウス」として装いを新たに開業しています。

     2階への階段
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李王家とは

李王家の当主李垠(り ぎん/イ ウン)は、大韓帝国最後の皇帝・高宗(こうそう)の第七男子として1897(明治30)年10月20日に誕生。1907(明治40)年7月に大韓帝国の皇太子になるも、朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きにより同年12月、日本に留学。 伊藤博文らの扶養を受けることになりました。李垠は、1910(明治43)年の日韓併合により身分は王世子、 日本の皇族に準ずる王族との待遇となり、敬称は「殿下」。妻の李方子(り・まさこ/イ・バンジャ)は1901(明治34)年11月4日に、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生まれました。昭和天皇のお妃候補の一人でもあった方子は、学習院女子中等科 在学中の15歳の時に、梨本宮家の大磯別邸滞在中、何気なく手に した新聞記事で、自らの婚約を知りショックを受けたといいます。李垠と、方子の結婚は日韓併合後の「内鮮一体」(日本人も朝鮮人も、全て日本国民)を目的とする政略結婚でした。
終戦後の1947年(昭和22年)11宮家51名は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられたため、経済的に従来の規模の皇室を維持できなくなったことから皇室離脱することになりました。
李王家もこの時に皇室離脱、同時に無国籍の在日韓国人となった。そして課せられた巨額の財産税のために邸宅を手放すしかありませんでした。
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        階段踊り場にあるステンドグラス
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館内至る所に飾り物が施され、

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既存部:鉄筋コンクリート造(一部木造)、2階建て塔屋付
増築部(バンケット):鉄骨鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)、2階建て
現在はレストラン、カフェバー

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無国籍になって以降すぐに大韓民国の国籍復帰を願い出ますが叶わず、一時日本国籍を得ますが、1962(昭和37)年12月15日、韓国政府から李垠・李方子夫妻に大韓民国国籍の回復が告示されました。そして、1963(昭和38)年11月22日に帰国した李垠・李方子夫妻を沿道で大歓迎で出迎えます。しかし念願がかなって帰国した李垠は、脳血栓と脳軟化症で意識はなく、7年後の1970(昭和45)年5月1日、72歳で亡くなりました。

一方、韓国に帰化した李方子は、李垠の死後も韓国にとどまり、当時韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育に取り組んだり韓国にいる日本人妻達の集まりを作るなどして精力的に活動します。

知的障害児施設『明暉園(めいきえん/ミョンヒウォン)』等の施設を設立していますが、「明暉」は、李垠の雅号。

彼等の結婚は「内鮮一体(日本人も朝鮮人も、全て日本国民)」との政略結婚でしたが、李方子は夫・李垠の国の人間となりきろうと帰化をして生涯、夫に添い遂げました。時代の荒波に飲み込まれ、翻弄された」という月並みな形容が陳腐に思えるほどの李垠と李方子の生涯でした。













旧李王家東京邸<歴史的建造史跡>
住 所:東京都千代田区紀尾井町1番2号
現名称:赤坂プリンスクラシックハウス
交 通:地下鉄東京メトロ赤坂駅徒歩3分

公式サイト:https://akasakaprince.com/

















<記中コメントは当日の配布パンフ及びHP「あぷりのお茶会」より一部転載させていただいております。











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by konmasa1024 | 2017-11-17 20:59 | 歴史的建造史跡
2017年 04月 01日
大磯「旧吉田茂邸」<復元歴史的建造物>
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この旧吉田邸は2009年に原因不明の火災により焼失してしまいました。その後大磯の地元及び大磯町が再建事業を具体化し、寄付や神奈川県の援助を得てこの度工事完成を機に一般公開されたものです。焼け残った門以外は主屋と新館すべてを再現、戦後復興期に首相を務めた大政治家の自邸での生活ぶりを垣間見れる場となりました。
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               二本の轍をすぎると左手に見える主屋に続く新館全景

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               主屋の玄関を入るとガラス張りの明るい坪庭を配した玄関ホール 
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右に応接間として使われた「楓の間」
暖炉の周りにソファーが配され、焼失前はこの部屋にも執務机が置かれていたようです。e0101172_21085835.jpg















玄関ホール左側の食堂「ローズルーム」はアール・デコ風意匠
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2階は和室の応接間兼書斎
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2階の湘南の海が見える部屋の一角には掘りごたつのついた執務机
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            首相官邸と繋がった黑電話。ダイヤルが無いってことは受話器を上げれば直接つながる仕組み
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2階のお風呂は大磯の船大工がかかわったと言う舟形の浴槽
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吉田茂と言う人: 吉田茂は明治11年(1878)高知県出身の自由民権運動家である竹内綱の5男と生まれ、かねてより竹内の親友である実業家の吉田健三の養子となりました。この吉田茂邸の敷地は吉田健三の別荘の地でありました。東大を卒業した吉田は外務省に入省、外務次官を歴任、戦前戦後を通して戦争回避、和平工作を行った。戦後最初の発足した東久邇宮内閣で外相を務め昭和天皇とマッカーサーのの会見を橋渡し、マッカーサーに天皇制の全敗はアメリカの占領政策に不利であることを理解させたと言われています。
昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争を機に日本の再軍備をマッカーサーに要求されましたが経済第一主義を主張して拒否しました。
翌年8月吉田を主席とする6名の興和全権団がサンフランシスコに向かい、講和会議が開かれ日本は独立を果たしました。
昭和29年(1954)に発生した造船疑獄事件が起こり辞職するが、昭和21年(1946)~8年間5次内閣まで日本の戦前戦後の混乱期をリードした名高い政治家です。







大磯 旧吉田茂邸
住 所:〒255-0005 神奈川県中部大磯町西小磯418
問い合わせTEL: 0463-61-4777
交 通: JR東海道線「大磯駅」下車  バス「二宮駅行き」「国府津駅行き」「湘南大磯住宅行き」で城山公園前下車
休館日:毎週月曜日 開館時間:9:00~16:30








<記中コメントは当日配布のパンフレット及び掲示説明版による>












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by konmasa1024 | 2017-04-01 17:08 | 歴史的建造史跡
2017年 02月 10日
黒澤ビル(旧小川眼科病院)<歴史的建造物>
この黒澤ビルは昭和4年(1929)眼科の医者であった小川剣三郎氏が建てたものです。ビルの名前に黒澤とあるのは、このビルが竣工してから4年にして脳溢血で急逝した小川剣三郎の後を継いだ黒澤潤三氏が医院長となり、維持してきたことによります。

            場所は上野不忍池より歩いて1分
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           現在も歯科医院が入居しており、この正面入り口からの出入りがあります。
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このビルの特徴は当時としては斬新なビル前面のデザインですが、それにもまして内部に設置された多くのステンドグラスではないかと思います。このステンドグラスは剣三郎氏の実兄に当たる小川三知氏からこのビルの新築に際し贈られたもの。

小川三知氏は慶応3年(1867)静岡市で医師として活躍していた小川清斎氏の次男として生まれました。早逝した兄の代わりに家督を継ぐため医師を目指して一高に進みました。その後東京芸術学校の開校に合わせて転向、絵画の道に進みます。
アメリカにわたり西洋画を学び、やがてガラス会社を渡り歩きながらステンドグラスの制作技術を学びます。そして明治44年ステンドグラスの材料を携えて帰朝する。自ら田端に工房「小川スツヂオ」と住居を構え、本格的にステンドグラス製作にはげみ、大正時代のステンドグラス界をリードした人。

正面玄関外側の扉のランマに挟まっているステンドグラスー鶏銘告暁ー

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           玄関を入ってすぐ左に応接室があり、部屋の中には多くのステンドグラスがはめられています。
           下の写真の天井の電気傘は六角形で各辺に草と動物や鳥を配置している。
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       さらに電気傘の下には中央部にカットされた半球形の硝子を接着しその周りに裸婦と草、
       そして十字のカットがちりばめられています。
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           小川三知氏が習得したステンドグラス製作に必要な数々の技法がふんだんに使われた作品を
           見ることが出来ます。
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小川三知氏は昭和3年に死去しているので、昭和4年に竣工したこの建物は建設途中であっただろうと思います。自分に代って家督を継いでくれた弟のためにどうしても完成させたい物件だったに違いありません。そしてデザインも自らの集大成と考えていたことでしょう。その意味で、大変思いのこもったステンドグラスだったと思います。


この建物は登録有形文化財に指定されており、月に一度のペースで公開されています。
建物は現在も現役ビルとして使われており、各部屋には入ることはできませんが、玄関、ロビー、応接室、階段回り、屋上など解説員が丁寧に説明してご案内いただけます。建物を見ると言うよりは全体として昭和レトロを感じるには十分ですが、肝心のステンドグラスを通過する光が不足しているのか、少し暗く陰気に見えるところが残念。これが自然で、建設当時のままが良いと言えるかもしれませんが・・・。
                                          



黒澤ビル(旧小川眼科病院)

住 所 :〒110-0005 台東区上野東京都台東区上野2-11-6
問い合わせ先: 有限会社黒沢ビル管理(TEL)03-3835-1011

交 通 :地下鉄 千代田線湯島駅 徒歩2分、地下鉄 銀座線 上野広小路駅 徒歩4分
公式HP :http://www.kurosawa-bldg.com/index.html




<記中のコメントは公式ホームページによる>















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    by konmasa1024 | 2017-02-10 11:55 | 歴史的建造史跡
    2016年 12月 25日
    北九州市 旧松本家住宅<歴史的建造史跡>
    旧松本家住宅は明治45年(1912)に北九州市戸畑区の現在地に建てられた和館(日本館)を併設した洋風近代建築です。
    この建物は、ともに福岡藩士であった松本家、安川家が筑豊の石炭業として財を成したことに始まります。父安川敬一郎と共に当主の松本健次郎氏が自らの住宅と迎賓館を兼ねて建てたものです。その安川・松本家は20世紀初頭には、6大財閥(三井、三菱、住友、安田、古河、藤田)に次ぐ資産を誇りました。そして地方財閥としての地位を固めて行ったようです。

    敷地入口の門を入ってすぐに表れる洋館
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    洋館は建築面積600m²の木造2階建てで、東京駅などを設計した明治の有名な建築家辰野金吾が設計しました。日本におけるアール・ヌーヴォー導入の早い例であり、CUTLET最も本格的なもの。家具に至るまでアール・ヌーヴォーで制作されている例は他にはないと言うことです。<国の重要文化財>

    館への入り口

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    一階広間、(訪問時はチェロのミニコンサート用に多くの椅子が並べられていました)
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    暖炉
    e0101172_20511576.jpg   一階食堂
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              食堂南側ベランダ
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              庭園側より本館を見る
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             二階への階段
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             ステンドグラス
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    日本館は建築面積470m²、中央書院や大座敷が雁行する書院座敷と居室を供えた建物で、洋館とは廊下でつながっています。

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    この建物は戦後一時期アメリカ軍に接収されましたが、昭和27年(1952)北九州経済人の集まりである西日本工業倶楽部が設立されると同時に、松本家より土地、建物を譲り受け、倶楽部会館として利用されています。

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    この建物屋敷の周辺は木々の繁る丘陵地で、敷地面積は約1.3ヘクタール、邸内には松本氏が国の内外から調達した家具調度品、美術工芸品が数多く揃っており、また金比羅山を背景にした庭園も四季それぞれに樹相を異にして観賞されます。北九州戸畑に育った地方財閥の栄華を象徴する建築物。
    一方、父安川敬一郎と共に旧明治専門学校(現九州工業大学)の設立に尽力した話を聞くと、単にお金儲けだけを考える並の事業家ではなかったように思います。






    旧松本家住宅(現西日本工業倶楽部)


    住 所 : 〒804-0021 北九州市戸畑区一枝1-4-33
    一般公開: 年間特定日のみ一般公開
    連絡先 : 通常はウエディング会場として活用されています。TEL:093-871-1031(代表)
    交 通 : JR戸畑駅より、西鉄バス(明治学園前下車)
          戸畑駅…25・27・28・32・63・73・83・11番
















    <記事中のコメントは一般公開日当日配布されたパンフレット及び公式HP、館内掲示の説明ボードによる>
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    by konmasa1024 | 2016-12-25 20:23 | 歴史的建造史跡
    2016年 10月 21日
    伊豆韮山反射炉<世界遺産>
    世界遺産「伊豆韮山反射炉」は伊豆半島に位置する伊豆の国市にあります。この反射炉は大砲を作るために建てられた反射式の溶鉱炉です。そして完成させたのが第36代韮山代官江川英龍です。
    1840年のアヘン戦争を契機として列強諸国に対抗するため軍事力強化が叫ばれ、江川英龍をはじめとする蘭学に通じた官僚達によって近代的な軍事技術や制度の導入が図られ始めました。
    その一つとして計画されたのが大砲づくりのための反射炉建設です。

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    反射炉は、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と煉瓦積みの高い煙突からなります。

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       反射炉  炉体断面図
      コークス(石炭からタールを除いたもの)を燃料として発生させた炎と熱を炉内の天井で反射し、千数百度の高熱で銑鉄を溶かし
          丈夫で強い鉄を作る。(ピザ窯でピザを作る要領)
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             外部から見る鋳口、焚口   焚所風入口、灰穴

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             大砲の鋳造場所

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             大砲部品の鋳型

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    重要文化財 江川家住宅と江川英龍

    江川家は清和源氏の流れをくみ1156年頃より伊豆韮山に定住したと伝えられている。その後鎌倉時代室町時代と伊豆の豪族として地盤を固め、15世紀中ごろに姓を江川と改める。江戸時代徳川家康に仕え、徳川幕府直轄地になるに及んで代官としてこの地を統括することになる。
    特に幕末の36代江川英龍は蘭学を納め、外国の社会事情や国際情勢を知り、日本の置かれた立場を深く憂慮した。幕府に対する沿岸防備の建議、近代的兵制の建議、西洋砲術の研究と訓練、東京湾のお台場や韮山反射炉の築造、日本最初のパン製造などなど数多くの歴史的業績を残す。一方、書画、作詞、工芸品を残す多彩な余技を持つ文化人でもあった。

    江川家住宅正門と母屋(敷地内には代官所跡地があります)
    反射炉から1キロと離れていないところに位置しています。

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    伊豆半島の過疎地にどうして近代技術の設備を建設したのか?日本で最初のパンが作られた窯がなぜこの地に?なかなか結びつかない話も何となく理解できるようになりました。すべて江川英龍と言う人の才能と日本の現状を憂う気持ち、そしてアイデアに溢れた発想なればこそ・・・。
    志高く生き抜いた先人の姿に会えたような訪問でありました。







    韮山反射炉<世界遺産>

    所在地: 静岡県伊豆の国市中字鳴滝入268
    事務所連絡先:055-949-3450
    交 通: 伊豆箱根鉄道伊豆長岡駅より徒歩20分
    開館時間:9~16時30分








    <記中コメントは現場配布の公式パンフレット及び掲示説明書きによる。>























         
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    by konmasa1024 | 2016-10-21 09:11 | 歴史的建造史跡
    2016年 09月 13日
    半田赤レンガ建物<歴史的建造史跡>
    この半田赤レンガ建物は、明治31年(1898年)にカブトビールの製造工場として誕生。明治時代に建てられたレンガ建造物としては日本で五本の指に入る規模を誇りました。
    そもそもカブトビールは明治22年(1889年)5月 中埜酢店4代目・中埜又左衛門と敷島製パン創業者・盛田善平らにより、「丸三ビール」と名づけられた瓶詰めビールが3,000本余り半田から初出荷されたことから始まります。

    工場建物の全景 煉地上2階 塔屋2階 瓦造、一部木造(ハーフティンバー構造)
    主な仕様 :屋根・・・ガルバリウム鋼板瓦棒葺、 外壁・・・煉瓦イギリス積み+鉄筋補強、煉瓦長手積ハーフティンバー壁、  床・・・鉄骨併用煉瓦造アーチ式床+コンクリートスラブ補強
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    ハーフティンバー棟
    主棟南に接続する木骨煉瓦造の平屋建で,東辺部は胴差を入れて高窓を開いて切妻屋根とし,南側は主棟から片流の屋根で,鉄板葺。瓶洗・瓶詰・荷造等の出荷作業を行ったとされている。戸口は両開板扉とし,当初の窓は上下げ窓であったが今は閉鎖しています。設計は妻木頼黄。
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    明治31年(1898年)ドイツから機械技師と醸造技師を迎えて、半田町榎下に新ビール工場となる半田赤レンガ建物を竣工。本格的ドイツビールの醸造に着手し銘を「加武登(カブト)麦酒」と改めました。

    工場主棟内部(現在はカブトビール及びレンガ建物の歴史を時代ごとにパネルで展示)
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    安定した温度や湿度を必要とするビール工場として建てられ、現在ではほとんど例を見ない、中空構造を持つ複壁。
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              カブトビールはどんなデザインのビール瓶?
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    このレンガ建物の歴史
    明治33年にはビールに酒税が課せられ、さらに日露戦争後の景気後退により、ビール業界も大きな影響を受け、再編がはじまります。カブトビールは、日本第一麦酒株式会社、加富登麦酒株式会社などの社名変更を繰り返し、昭和8年には大日本麦酒株式会社と合併しました。その後太平洋戦争により工場は閉鎖され、大日本麦酒株式会社はサッポロビール株式会社とアサヒビール株式会社に分離していくのです。
    第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に中島飛行機製作所の衣糧倉庫となり、戦後は1948年(昭和23年)7月に設立された日本食品化工のコーンスターチ製造工場の一部(主として製品保管倉庫)として1950年(昭和25年)3月より使用されたが、1994年(平成6年)9月に同工場は操業を終え、1996年(平成8年)3月に同社が半田市へ土地と建物を譲渡した。
    また、現在までの間に東南海地震、三河地震、半田空襲などに見舞われるも現在までその姿を残しており、半田空襲の際にP-51戦闘機から受けた機銃掃射の傷跡が現在でもその壁面に残っている。

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    復刻カブトビール
    そして時代は流れ、平成17年(2005年)6月、半田赤レンガ建物の保存活動を行う赤煉瓦倶楽部半田の手によって、カブトビールが復刻発売されることに。およそ半世紀ぶりのカブトビールの発売は、3000本限定であっという間に売り切れ、幻のビールと呼ばれるようになりました。
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    さらに2015年(平成27年)7月18日に観光施設としてリニューアルオープン。現在に至る。
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    日本のビール黎明期、大手4大ビールメーカー(サッポロ、アサヒ、キリン、エビス)へ果敢に挑戦したカブトビールを生んだ半田赤レンガ建物。その重厚な佇まいは、半田の先人たちの志と豊富な財力・技術力を物語っています。そして、こうして歴史的建造物を活用して地域活性化の拠点となることも先人たちの偉業を知るチャンスを与えてもらえることに通じます。






    半田赤レンガ建物<旧カブトビール製造工場>
    所在地:〒475-0867 愛知県半田市榎下町8番地
    TEL:0569-24-7031 FAX.0569-24-7033
    交 通:[名鉄河和線利用] 住吉町駅下車東徒歩5分 [JR武豊線利用] 半田駅下車北西徒歩15     分 [知多半島道路利用] 半田中央インターより東へ車で10分
    開館時間:10:00〜17:00  休館日/年末年始














    <記中コメントは公式HP及び当日配布資料、現地工場内の掲示資料による。>
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    by konmasa1024 | 2016-09-13 18:34 | 歴史的建造史跡