2015年 06月 04日
旧本多忠次邸は東京世田谷に昭和7年(1932)竣工の昭和初期に流行していたスパニッシュ様式を基調とした瀟洒なたたずまいを見せる。 本多忠次とは徳川四天王の一人の本多忠勝を始祖とする旧岡崎藩主本多家の子孫。忠次の父である本多家の17代・忠敬(最後の岡崎藩主)は宮内省式武官・貴族院議員を歴任する一方、岡崎の城址公園整備や教育振興に貢献した人物。その次男・忠次は東大に学び、周到な調査と準備を経て建設地の選定から建物の基本設計を自ら行って完成させた。 この館は1999年に忠次が103歳で世を去るまでの70年間を過ごし、2012年に本多家の故郷である岡崎市によって移築・復元された。 南面には三連アーチのアーケードテラス、東面には2階まで伸びる半円形のボウ・ウインドウ、西面には車寄せを持つ玄関を配しており、フランス瓦の屋根で外壁は色モルタル仕上げ、当時流行であった田園趣味を反映させたスパニッシュ様式を基調としています。 一階南側には団らん室や食堂、サンルームなどが配され、大きな窓から注ぐ豊かな外光と純白の漆喰壁が、明るくモダンな空間を演出している。 団らん室 食堂 サンルーム 邸内を鮮やかに彩るステンドグラスの数々 1階浴室 2階湯殿、魚が泳ぐ竜宮をイメージしたもの 2階への階段続く吹き抜けに設えられたもの 色鮮やかなソファが印象的な2階のティールーム。当時パリで流行していたアール・デコ様式を採用している。 前庭にはスパニッシュ建築様式には欠かせないと言われる壁泉のある大きなプールが設置されています。世田谷の時代にも設置されていたと言う。 忠次は、この自邸の建設に際して、自ら洋館の建ち並ぶ田園調布や松濤などを訪れては手本となる邸宅をまわったり、照明や調度品まで研究を惜しまなかったと言う。外観からは洋風ですが、2階の和室も含めて和のテイストを取り入れ、またプライバシーを高めた現在の住宅様式の先駆けとなる内部となっています。家族のために理想の住まいを追い求めた忠次の思いが息づいた建物です。 江戸時代までの武家社会における藩主の地位と力は想像をはるかに超えるものだったろうと推測するのですが、旧岡崎藩主の本多家も明治維新とともに一般人となり、資産はあったもののその後の暮らしぶりがどのようになったのか?興味深いところ。 忠次氏の時代になっても岡崎からこの邸を訪れる多くの人があったと言う。忠誠心なのか郷土の誇りなのか、郷土を思う心なのか、そして建物が郷里に戻るとは、まだまだ主従のつながりが残っているようで、これもまた良しです。 岡崎市旧本多忠次邸 所在地:愛知県岡崎市欠町字足延40番1号 TEL:0564-23-5015 交 通:名鉄 東岡崎駅より、東公園口方面行バス 「東公園口」下車徒歩3分 休館日:月曜 開館:9:00~17:00 <記中コメントは雑誌「AGORA」現地入手の公式パンフレットによる>
by konmasa1024
| 2015-06-04 16:24
| 歴史的建造史跡
|
ファン申請 |
||