2014年 09月 07日
名古屋、揚輝荘と聴松閣<歴史的建造史跡>
揚輝荘は、大正から昭和初期にかけて(株)松坂屋の初代社長伊藤次郎左衛門祐民によって作られた別邸です。名古屋市内の高台に位置する覚王山は古来月見の地として知られるところ。祐民は名古屋に訪れる賓客のもてなし場を自ら作ることを考え、この地に「揚輝荘」と言う別荘を大正の中頃より計画したそうです。この計画が完成した昭和14年頃には約1万坪の敷地の池泉回遊式庭園に約30数棟の各種建造物が建っていたという。

下の写真は現在も残っている昭和4年に建てられた和洋折衷建造物「伴華楼(バンカロウ)」
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       尾張徳川家ゆかりの座敷を移築、一部洋室を加えて完成。木製のウロコ壁、
       手すりのついたデッキ部分、一見、外観は山小屋風バンガローに見える。
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       1階、2階の洋室には暖炉が設えられ、それぞれに焚口を持ち、煙突も2本。
       その2本の煙突を市松模様の煙突カバー覆っています。

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洋室の室内はどこか和風な部分があったり、暖炉の部分には出土した歴史的建造物の古瓦を貼り付けたり、祐民がかなりのこだわりをもって作られたように忍ばれる。

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「白雲橋」京都修学院離宮の千歳橋を模したと言われる廊橋で、この庭園北のシンボルとなっています。
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聴松閣

揚輝荘は現在北園、南園と分離されており、面積も3約千坪と縮小されています。伊藤家の個人財産であったものを名古屋市に移管、現在は名古屋市の文化遺産として全体を通して「揚輝荘」の名前で管理されております。
その南園のシンボルが「聴松閣」

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         ハーフチンバーの外壁など山荘風の外観をした迎賓館で、
         昭和12年に建築されました。壁は祐民が好んだと言われるベンガラ色
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1階旧食堂
栗材で彩られた旧食堂。迎賓館の役割を担っていた聴松閣には国内外の賓客が頻繁に訪れた。
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           階段の手すり柱に施された手彫りの細工
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階段に使用された材木には削り方を変えた特徴ある仕上げになっています。

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地階は神秘的な異空間、インド様式です。
伊東家は熱心な仏教徒の家柄で、祐民はその仏教が発したインドに関心を持ち、その生まれ故郷を訪ねる機会を得た旅行先で受けた感動を、この聴松閣で実現させたいと考えるようになったと言う。
ホール、バーも併設される
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地下ホールの壁一面に描かれた西インドのアジャンタ石窟に描かれた釈迦生誕物語の壁画の他、
ホールの一面は明かり取りの窓、そこにはインド訪問時に観たと言うヒマラヤ山脈の峰々がガラスに彫り込まれ、感動の深さを感じさせる。
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         ホール横にタイル張りの一室があり、水道が使えるようになっています。
         何用でしょうか?きっと訳ありの部屋なのでしょう。
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伊東家は信長に通じる武家の出身ですが、機を見る術や交渉力に長けていたと思われる。武士を捨て呉服商を商い、第15代伊東家の当主となった祐民は後に松坂屋を創業、商工会議所を通して名古屋のリーダーとなる。55歳の定年制を自ら守り、退いて後東南アジアの留学生を受け入れるなど福祉教育国際交流事業に傾注したという。戦前アジアの国々に覇権を広げる、「自国の繁栄だけを考え、万事力を持って解決しようとする。」と日本の軍拡を批判。アジアの国々との軋轢を少しでも和らげたいという思いがあったと聞くと大いに拍手を贈りたくなります。





名古屋、揚輝荘と聴松閣

所在地: 〒番号464-0057 名古屋市千種区法王町2-5-17
問い合わせ先: 052-759-4450
開 園: 月曜を除く毎日、午前9時30分~午後4時30分
交 通: 地下鉄東山線「覚王山」駅下車徒歩約10分







<記中コメントは揚輝荘公式HP及び当日配布されるパンフレットなど>

by konmasa1024 | 2014-09-07 15:11 | 歴史的建造史跡


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