人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2010年 04月 09日
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>

誠之堂(せいしどう)
誠之堂は大正5年(1916)に第一銀行の創設者、渋沢栄一の喜寿(77歳)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。以来第一銀行(後に第一勧業銀行)の所有の下、銀行の集会施設として使用されておりましたが、「清和園」の敷地の過半を買い受けた聖マリア学園の施設拡充計画により平成9年誠之堂と清風亭の両建物は取り壊しの計画が持ち上がった。建築学的にも貴重なものから、渋沢栄一生誕の地である深谷市が譲り受け、平成11年移築復元したものです。<平成15年、国の重要文化財に指定>

誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_13404691.jpg

設計は後に大正時代建築の名手と称される田辺淳吉、施工は清水組しみずぐみ(現在の清水建設株式会社)が行いました。
正面の屋根の中央には、小屋根が付けられています。これは、室内からは見えず、明かり採りの機能はありません。また、田辺は、栄一にふさわしい威厳を持たせるため、シンメトリー(左右対称性)を強調する目的で作ったと記しています。正面のベランダには、左右にかぎ型のベンチが設けられています。ベンチの背もたれには、東洋趣味風の手摺子が木組みで装飾されています。
 このベンチも左右対称で、小屋根とともに、正面のシンメトリーを強調する効果があります。

誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_13413484.jpg


構造は補強煉瓦造、外観は焼きの異なる3色の煉瓦が組合わせて積まれ、煙突の直下には煉瓦で描かれた「喜寿」の文字を見ることが出来ます。煉瓦は、深谷市内に所在する日本煉瓦製造株式会社で焼かれたものであることが確認されました。
屋根には天然スレートが葺かれています。
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_1343959.jpg

建物の雰囲気は栄一の希望を元にイギリス風農家をイメージしています。
その他に3つの希望条件を依頼しています。「建坪は30坪前後」「田舎の家らしく」 「小集会に適する程度の設備」と言うことだったそうです。
室内には暖炉上の栄一のレリーフや古代中国の画法による祝宴の様子を描いたステンドグラスがあり、さらに中国、朝鮮、日本のデザインが取入れられています。
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_1344689.jpg



清風亭
この建物は大正15年(1926)に第一銀行2代目頭取、佐々木勇之助の古希こき(70才)を記念して、誠之堂と同様東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園」内に建てられました。
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_13541718.jpg

設計者は、銀行建築の第一人者の西村好時です。構造は鉄筋コンクリート造、外観は人造石掻落じんぞうせきかきおとし仕上げの白壁にスクラッチタイル(ひっかき傷をつけたタイル)と鼻黒煉瓦はなぐろれんが(黒褐色のれんが)がアクセントをつけ、屋根には瑠璃色るりいろの釉薬うわぐすりをかけたスパニッシュ瓦(スペイン風を模した丸瓦)が葺かれています。
大正12年(1923)の関東大震災を契機に建築構造の主流となった鉄筋コンクリート造の初期の事例として、建築史上貴重な建物です。

 
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_1355074.jpg

室内で、中心にあって目立つのは暖炉です。当初からの火除け板も残されています。
 創建当時には、暖炉上の壁に佐々木勇之助の肖像画がかけられていたことが、当時の写真からわかります。
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_13565067.jpg

屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、西村自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。


誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_1357314.jpg


以上両建築とも社長の喜寿のお祝いに社員の出資によりいわばプレゼントされたものと言います。いかに部下から敬愛され、慕われた存在であったかと思い、お目にかかりたい気持ちになりました。
ただ、残念なのは現在の移設場所が世田谷に存在した当時の環境と相当かけ離れた感じがしてならないのです。多分周りは木々の緑に囲まれていたんではないでしょうか。


渋沢栄一生誕の地(中ん家)
渋沢栄一は天保11年(1840年)豪農 渋沢市郎右衛門の子として誕生、昭和6年(1931年)92歳でこの世を去るまで実に500にも上る企業設立にかかわり、さらに多くの公共・社会事業に関係。日本実業界の祖と呼ばれる。
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_1435826.jpg

慶応3年(1867年)15代将軍徳川慶喜の弟、秋武氏に随行してヨーロッパに渡る。28歳の冬であったと言う。彼は静養文明社会で見聞したもの全てが驚異であり、それまで抱いていた攘夷思想を覆すほどのカルチャーショックを受けた。明治元年(1,868年)、2年間の遊学を終え帰国した彼は、社会の改革に進み始めた。第一国立銀行の創設以降各種の事業会社の設立にかかわり、偉大なる事業の発展に実績を重ねていった。
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_142118.jpg

生家は明治25年の失火により焼失。この屋敷は翌年妹の貞の婿、市郎により再建。その後海外留学生のため全寮制私塾「青淵塾・渋沢国際会館」として使用されていた。
誠之堂・清風亭<歴史的建造史跡>_e0101172_1421578.jpg


渋沢栄一の偉いところは、実業家として成功を納めることのほかに、「成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべき。」と言う信念の持ち主で、私利私欲を超え教育・社会・文化・福祉事業に熱心に取り組んだことでしょうか。 今はただ自分だけが儲かれば良いと言う実業家が多い中で、世界レベルには遠く及ばなかった明治の初めにあって、将来の日本の発展を見据えた並外れた才覚と行動力は賞賛に値する。



誠之堂・清風亭
所在地 :〒366-0837 埼玉県深谷市大字起会84-1
T E L:  048-571-0341 交通アクセス JR深谷駅から車で 20分
営業期間 開館時間 : 9:00~17:00 休館 年末年始
料金  : 無料
文化財 国重要文化財
お問合わせ 048-572-9581 HP http://www.education



<文中のコメントは誠之堂・清風亭公式HP及び当日配布のパンフなど)

by konmasa1024 | 2010-04-09 13:22 | 歴史的建造史跡


<< 日本で最初の「きつねうどん」<...      五島美術館の「こぶし」<四季折々> >>